|
第4回 (2005.12.6)
法規を守るということとは別に社会には公衆道徳というものがあり、社会秩序をより人道的なレベルに高め、そしてそれを維持向上させるための規範として機能している。困っている者や弱者には手を差し伸べ、保護を与えることが善でありそして美徳と位置付けられているのだが、しかしジャカルタ・ドライバーたちのふるまいは、そのような美徳を反映するものなのだろうか。インドネシア文化の中にも弱者保護原理は存在しており、日常生活の中でそんな美徳の実行者に対して向けられる賞賛の声は、わたしたちが意外と思えるほど強い。
ところがいざ路上に下りてみれば、車の列に隙間があればそこへの割り込みは当たり前で、そんな場所での車線変更や脇道からの合流などがどのように行われているかは、みなさん先刻ご承知の通りだろう。「間に入れてくれ。」と隙間なくびっしり並んだ車の列に近寄っていけば、「わたしの前にどうぞ入りなさい。」と譲ってくれる人は稀で、大多数は「わたしの後ろへどうぞ。」という態度。その態度を後続車もまた続けてくれる。前の車との車間距離をほんの数十センチまで詰めて一緒に動くから、いつまでたっても入れない。
かといって、渋滞の中で立ち往生すれば、自分の後ろにいる車からブーブーとクラクションを浴びせられる。そのうち交通整理の警官が近寄ってくると何が起こるかわからないから、いきおいその場を離脱せざるを得ない。こうして曲がりたい場所で曲がることができずに大迂回を余儀なくされることも起こる。だからこそ割り込みの度胸とテクニックが養われることになるわけで、時間と燃費節減という経済合理性を求めようとするジャカルタ・ドライバーなら、悪徳への傾斜は避けて通れない関門だ。道路総延長8千キロに満たないジャカルタの限られた道路面積を五百万台を超える四輪二輪自動車が使おうとしているために、路上のスペース争奪は激化の一途をたどっている。
上で見た路上に譲り合いのない交通事情をもとに、ジャカルタ・ドライバーは思いやりのない利己主義者と単純に決め付けることはお奨めできない。「間に入れてくれ。」と近寄ってきた車の後ろにも、たいていびっしりと車が数珠繋ぎになっているものだ。そしてその先頭車両に道を譲ってやったとたん、その後続車が前の車との車間距離をほんの数十センチまで詰めて一緒に動くから、今度は自分がいつまでたっても進めなくなる。車線内を直進するのに比べれば、道路の左側車線から一番中央寄りの右端車線まで車線を移っていくことははるかに神経をすり減らす作業であり、だからこそずらりと並んだ車列の隙間に入り込めるチャンスを逃したくないと思うのは人情だろう。他人への善意を示せばそれにつけこむ人間にたいへんな目に合わされるという文化であるなら、どのような振る舞いが自分にとって最適なのかという問いの答えが別の文化とは異なっていて当然だ。リスク管理はそんな文化だからこそより厳しく実施される必要があるのだ。
ジャカルタポスト紙に掲載された西洋人の投書を何年か前に読んだことがあるが、かれは都内目抜き通りの大混雑の中で合流車に道を譲ってやったために上で述べた状況を実体験した。ジャカルタで善人になるにはたいへんな犠牲を覚悟しなければならない、という結びのコメントには真理がこもっている。だがよその文化における善行がインドネシアでかならずしも善行にならないことは、皆さんも先刻ご承知ではなかっただろうか。
インドネシア人ドライバーの運転マナーの悪さを批判する声は大きいが、白人にせよ東洋人にせよ、そのように批判を語る外国人が自分でハンドルを握る姿をじっくり観察してみると、倣岸尊大な態度では決してひけを取らないようだ。荒っぽいマナーが標準であれば、その標準にあわせなければ誰であってもそこに参加することが困難になるにちがいない。
(文・西祥郎)
|