(4月8 日更新)
シリーズ第一回の御登場はインドネシア滞在暦39年の吉川嘉彦さんです。 吉川さんは1964年ジャカルタに来られ、68年の軍事政変を目の当たりにされた貴重な歴史体験をお持ちです。 ジェイピープル編集部は、吉川嘉彦さんへのインタビューを数回に分け、氏の貴重な歴史的体験を定期的にお伝えしていきます。







吉川さんは現在ガトットスブロト沿いにある高級コンドミニアム・PalmaCitraのマネージャーをしていらっしゃいます。
――通算インドネシア滞在暦が35年以上だとお伺いしました。
天理大を卒業した22歳のときにインドネシアへやってきました。1964年のことです。当然船でやってきました。船の名前は“グヌン・グントゥール”、戦後賠償でインドネシアに引き渡されたジャカルタロイドの貨物船だったと記憶しています。当時は飛行機に乗ってジャカルタに来るなんてそんな贅沢な事、考えもしなかったですよ。

――当時のジャカルタの様子はどんな感じでしたか?
スカルノ政権の末期でしたね。ちょうどJL.タムリンで日本大使館を作っていた頃です。当時の環境といえば本当にひどかった。どこへ行ったても、停電、断水、水道チョロチョロ、そして蚊と南京虫の時代でした。痒いのなんのって…。(笑)日本食レストランなんて当然一軒もない。日本食の食材すらないのですから、当たり前ですけどね。お湯が出るのもホテルインドネシアだけ。東洋綿花さんの社宅の庭先にあるドラム缶製の五右衛門風呂に入れてもらったものです。今では平気で日本人の若い女性が働ける環境になっていますが、本当に隔世の感がありますね。

――「9.30」事件(※下欄参照)に遭遇されたときの印象はどうでしたか?
「9.30」事件は本当に凄かった。この間の暴動(98年経済危機におけるジャカルタ暴動)なんて比ではないですね。特に印象深かったのが、当時の中国大使館を焼き討ちし破壊したのが、華僑の子弟であったということです。祖父は中国国籍、父は台湾国籍、あるいはその逆、そして子供はインドネシア国籍、ほとんどがそんな華僑でした。若い華僑世代の連中が、インドネシア国内に共産党が入ってくることを大いに拒んだわけです。若い華僑世代にとっては共産党などに政治介入してほしくなかった。華僑がすべて共産党であると思われたくないわけです。中国大使館の門前を、トラックの後部をぶちあて破壊し突入、中国国旗を引き降ろし、それを引き裂き首に巻きつける。そして最後は中国国旗に火をつけ、建物を破壊する。「自分達新世代は共産主義者ではない」という証しですね。あの光景はいまでも忘れられません。

――学生時代に印象深かったことといえば?
ジャカルタを離れてバンドンへ移動したのは「9.30」事件から4日後です。バンドンにあるパジャジャラン大学で勉強するためです。ところがパジャジャラン大学へ入学したのはいいものの、授業は休講だらけ、学内は学生集会だらけ、とても勉強する環境ではなかったですね。(笑) で、その事件の少し前に、移動途中の列車内で知り合った女性がジョグジャカルタ司令官カタムソさんの奥さんでした。その檀那さんがあの「9.30」事件で殺されるとは本当に驚きです。また当時早稲田大学の偉い先生がバンドンで日本語講座を開かれていました。その先生がインドネシアを去るにあたって、代わりに講師を任されたのが私です。「そんなことができるもんか」と思いながらも、バンドン日本語学院を開設することになったのです。開校式はダゴ通りにある国鉄会館で行いました。そこに来てくれたのが、スカルノの長男、グントゥールです。今のメガワティ大統領の兄貴ですね。その頃メガワティは農学部の二年生、ちょうど同時期、彼らと同じ街で過ごしたことになりますか。思いおこせば懐かしいなあ。(笑)

以下次回へ続く(次回の吉川さんインタビュー掲載は4月29日を予定)

※「9.30」事件
1965年10月1日、「9月30日運動」決起部隊が突然、7人の陸軍司令部高級将校宅を襲い、ヤニ陸軍司令官以下6人の高級将校を拉致・殺害した。「9月30日運動」の正体は国軍内の左派勢力で、彼らは大統領官邸、国営ラジオ放送局、電話局の3カ所を占拠し、「9月30日運動」の目的を「反スカルノ・クーデターを未然に防ぐため」と説明した。 しかし、陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将は陸軍の指揮権を把握、直ちにクーデターの鎮圧に乗り出す。その後クーデター鎮圧に成功したスハルトの権力は次第に強大となり、ついにはスカルノ大統領を退陣に追い込み新大統領に就任する。この事件は「共産党が主導したクーデター未遂事件」とされ、共産党狩という名目で、30〜35万人以上の人々が虐殺された。近年の歴史研究によれば、スハルトが権力把握するため、意識的に起こしたクーデター事件だとも言われている。