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第48記 2005年1月11日
年も明けて2005年となった。当地ではいつもにもまして、年末年始の雰囲気がなかった気がする。それは元旦が土曜日であったからか。会社では大晦日31日金曜日までを出勤日とし、土日は通常通り休み、3日月曜日は通常通りに出勤とした。これでは大晦日元旦といえども、普段の週末と変わらないカレンダーなのである。現に、金曜日の大晦日、会社のある従業員は「あ、坂井さん、その報告はMinggu depan(ミング・ドゥパン:来週[つまり月曜日])に提出します」と言ってきた。確かに月曜日はたかが3日後だが、しかしそれでは来年になってしまうではないか!彼ら彼女らにとって、一年のうちの正月の大行事とは、まさにイスラム正月を指しているのであろう。 新しい年を迎え、私の携帯電話も新調された。実は少し前に交換したのだが、そのきっかけは「修理不能」に陥ったからである。前の電話機は約5年間使用した。その前の電話機もおよそ5年もった。どちらも、約5年で修理できないほど故障し、ついに使えなくなったのである。仕方なしの交換である。 最近の携帯電話機はカメラにメールに、いろいろ多機能である。しかし、もっともシンプルな機種を そして新たに電池や充電器を新調しなくてもよい、できれば全く同じ機種を求めたが、お店をいくつも回っても、「Sudah tidak ada!(スダ・ティダ・アダ!:もうありませんよ!)」と同じ台詞を言われる始末。確かに、こういう世界は5年もすれば旧型のタイプは部品在庫も危ういほどである。諦めてほぼ同等の一番安い機種を買い求めた。これなら、使い方もほぼ同じで、新たに取扱説明書を読み直す必要もないだろう、そう考えたのである。 しかし、それは少し甘かった。まず、競争の激しい携帯電話機市場で、新たに出る廉価版は、とにかく部品が安物っぽい。そのうえ、デザインは向上したが、今まで便利だと思っていた機能が省かれたりして、それに慣れるにも少々時間を費やした。何より、決定的な問題があった。購入時そのことに気付かなかった自分を反省したほどだ。 その決定的な問題とは、電話番号をメモリーできる数が半減していたことである。友だちの電話番号や必要な電話番号を記憶させておく、あの電話帳の機能である。以前の機種では合計250件分を記憶できた。レストランや病院などの電話番号も含め、私の電話機の電話帳は250件ほぼ満タンであった。それが、新しい電話機にしたがために、150件分しか記憶できなくなったのである。 さて、どうしたものか。100件分の電話番号を捨てなければならない。 よく電話する相手の電話番号は、自分の頭の中の「記憶」帳も使える。しかし、それも限界があるので100件分は無理だ。ということは、約100件分の電話番号を消さなければならない。これもちまたで言う「整理整頓」に値するのであろうか。 私の2005年は友だちを100人捨てることから始まった。 駐在員たちは今日も、日々の駐在生活において新旧をうまく使い分け、数字の羅列である電話番号を自分の記憶にとどめるためにも記憶力と格闘し続けるのであった。
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第47記 2004年12月28日
今年2004年もあと数日を残すばかりとなった。私にとってのこの1年は、多くの著名な方と出会ったり、さまざまな場所へ繰り出す機会を得ることができた。日本人学校との関わりや、ラジオ出演など、多くの初めての体験にも恵まれた。いくつになっても「初体験」にはドキドキワクワク感動するものである。 私が今年から始めた新たな活動の中に、サッカーのコーチがある。コーチと言っても、指導しているのは9歳以下のいわゆる小学校低学年。技術よりも躾や道徳心を養うよい社会勉強の場になれば、と週に一度ほかのお父さんやお母さん方と一緒にグランドに出ている。 グランドはジャカルタの南側、ボゴールに位置する。都会から離れた澄んだ空気と山あいの景色は、それだけで普段の疲労と都心部のストレスを吹き飛ばしてくれる。 サッカーに集まる数十人の子どもたちの中では、すでにサッカー技量に差が見えきている。しかし共通しているのはみな元気であること。現在雨期の当地では、練習中に雨にやられることも少なくない。ある練習時、最初の準備体操の時点ですでに雨が降り出したことがあった。みるみるうちに大雨となり、体操が終わる頃には豪雨となった。子も親も一旦は屋根の下に移動し様子を見たが、芝生のグランドはあっという間に池に変化してしまったので、練習は中止となった。準備体操を終えていよいよ楽しい練習の始まり、という時に中止となったのでは子どもたちはきっと消化不良であったろう。ところが、練習は中止したものの、何人かの子どもは大雨とグチャグチャのグランドの中に、ボールと共に飛び出して行った。「雨の子」たちは、炎天下での練習の時より、優雅に飛び舞っているように見えた。そして私の体は雨でずぶ濡れであったが、心はとても清々しい気分であった。 子どもたちにとって、自動車やスクールバスでドアからドアまで運んでくれる普段の通園や通学では「天候とともに遊び方を変える」という技量を磨く機会に恵まれていないかもしれない。雨なら雨なりの遊びを、そして晴れなら晴れなりの遊びも、移動中いつも真っ黒の飛散防止フィルムの貼られた車の中から外を見ているだけではなかなか学べないと思うのである。安全上の問題から、晴れていても外で自由に遊べない日が続くこともある。そういう当地において、せめてここボゴールのグランドでは思う存分走り回らせたい。高速道路で1時間近くもかけてせっかくやってきたのだから。気の済むまでクタクタになるまで動けばいい。幸い周囲の空気もジャカルタ市内に比べればかなりきれいで、体を濡らす雨もそれほど汚れているような気はしない。酸性雨にはかわりないだろうが。 駐在員ばかりが感じている不満や不平は、その家族らが感じているものとは異なるかもしれない。駐在員の家族が感じる日々のストレスを素早く見抜き、より有意義な駐在員生活を目指すのもまた、駐在員である我々の大切な努めであろう。 駐在員たちは今日も、駐在員の子どもたちの心や体の変化や受け止め方を通し、子どもたちから「美しい駐在員のあり方」を新たに学ぶ機会に恵まれるのであった。
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第46記 2004年12月14日
とあるクラシックバレー教室の発表会の裏方を手伝った。とある、とは言ったが、その発表会場は1821年建造のあのGKJ(Gedung Kesenian Jakarta:ジャカルタ芸術劇場)、その上、なんと日本からプロのバレーダンサーをお招きしての豪華なステージである。 ステージの裏方大好きの私であるが、この日の私の担当は照明。音楽・音響は日本からプロの方が来られていたので、私は踊り子1人1人をより美しく輝かせるライト係に回ったわけである。そう言えば小学生の学芸会のとき、重くて熱いスポットライトを汗をかきながらグルグル振り回したことがある。それを思い出し、この日、私はTシャツにタオルを巻いて万全の態勢で乗り込んだ。しかし何のことはない、照明室に入ると、最新の照明機材がバ?ンと揃っているではないか。冷房も完備。寒くて上着を着るほどだ。 その日のリハーサルと2時間半の本番ステージで、私はインドネシア人のY氏と一緒に仕事をした。GKJでもう10年以上照明係として勤めているというY氏。ステージ側からは日本語で照明切り替えの指示が来るので、それをY氏に伝えて操作してもらうのが私の務め。間違いが許されないばかりか、日→イへの言語の「変換」が途中に入るので、ほんの0.5秒の遅れが観客にとっては非常に間の悪い印象となるわけだ。しかし、それもそれほど心配するほどでもなかった。彼はこの道10年。それもGKJでは外国人の音楽演奏家や舞踊家舞踏家が毎日のようにステージを行っている。前回の都知事が来られた時に音楽の裏方を手伝った時もそうであったが、こういう専門の技術者は、初めての音楽や踊りでも先が予測できるのだろう、言語が理解できなくても感覚的に「次はこう来る!」と読めるようだ。さすが、プロ!(実際には私の手際の悪さから間の悪い箇所もあった) さて、この最新の照明機材、コンピュータを使ってあらかじめプログラムしておくので、つまり、A明るく、B薄暗く、A右半分青く、A暗転、というような順番がステージに合わせてあるなら、あとは合図に従ってAとBを交互にスイッチングするだけである。プログラムさえ間違わずに組まれていれば、素人の私でもできる。はずだった。 というのも、彼が途中でトイレに行っているとき、急に舞台側から「照明強くして」という指示が入ったのである。「えっ!操作分からんゾ!」私は、焦って見よう見まねにスイッチをいじくった。偶然にもそれが当たり、舞台は少し明るくなった。ホッとした。良かった、これがリハーサルの時で。戻ってきたY氏には、崩れたA→Bの順番を直すためにプログラム修正をしてもらった。GKJの照明にはWayang(ワヤン:インネシアの影絵)用の照明もこのデジタルな機材に連結している。しかし、インドネシアで、このインフラに若干心配のあるこの当地で、停電も少なくないはずだ。その時はさぞ大変であろう。アナログあってのデジタルだと感じた訳である。 そんなデジタルな機材、Y氏によるとこれは4年前に導入されたと言う。ほほう、どれどれ、とよく見ると、コンソール、照明本体、液晶画面、それぞれに「JAPAN」というシールが貼ってある。よく見ると「Official Development Assistance」と記されている。ODA(政府開発援助)である。そうか、これらは日本政府からの支援で導入された機材だったのか。急に親しみを感じた私は、ついでに彼に言った。「照明の操作する時は、タバコ吸わない方がいいよ」 Y氏は吸いながら照明を操っていたのである。ライトの照明が煙に邪魔される心配より、ODA機材にホコリが溜まる方が気になった。 さて、子供たちのバレエ発表とプロダンサーのステージが盛況に終わった本番。そのあと、感動に酔いしれた私たちスタッフは打ち上げ会場へと向かい、そして出演されたバレリーナたちと一緒に、、、おっと、紙面が足りないようです。残念ながら今日はここまでとしておきます。 駐在員たちは今日も、ところどころで日本人を見かけ、ところどころで日本政府の影を見かけ、そしてところどころで日本の当地における位置付けを感じ、駐在は孤独ではないのだと元気づけ、駐在員同士の連帯感を感じるのであった。
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第45記 2004年11月30日
石原東京都知事と接する機会に恵まれた。アジア大都市ネットワーク21(ANMC21)行事での来訪であるが、5日にわたる都知事のジャカルタ滞在は我々現地駐在邦人社会でも連日大きな話題となった。知事の姿を一目見て「カッコいい」と感じる女性ファンが多かったようである(これは私の極めて狭い周辺のできごと?)。確かに都知事は、テレビで見るよりずっと堂々とした感じで、たくさん発するオーラを見た気がした。 さて、このANMC21の催し物会場には、参加した12都市のそれぞれのプロモーションが行われ、工業製品やその街の紹介も各ブースで行われた。その中で、ジャカルタ市の都市交通のブースが興味を惹いた。すでに運用されている「バスウェイ」に続き、次のステップである海上交通、地下鉄、モノレールの構想。そしてその説明パネルの横には実物の「kancil(カンチル:子鹿)」が展示されていた。このカンチルとは、現在インドネシアに約1万4千台ほどある3輪幌付きタクシー「bajaj(バジャイ)」に代わる、次世代の庶民の足である。カンチルは完全な4輪車、ライト、ワイパー付きなので、都心部の走行も可能だそうだ。すでに私も営業中のカンチルをジャカルタ市街地で何度か目撃しているが、その車体金額の高さがバジャイからの乗り換え促進を阻んでいるとも聞く。 さっそく私はその展示車に触れてみた。窮屈だが大人4人が座れる程度の広さをもつこのカンチル、市街地では狭い路地もどんどん入り込めそうだ。車中を見ると余分な装備は一切なく、ギアは前進と後進あるのみ。そして一つ気が付いた。お客の乗る後部座席のことである。ベニヤ板のような現行バジャイの乗り込みドアに対し、カンチルの後部ドアは窓ガラスもあり、そして後方へ向けて斜めに切り上がるようにカットされたデザインは斬新で、薄くて軽い。しかし、である。乗り込む際には、開けたそのドアを自分で保持しなければならないのである。どういうことかというと、ドアは開閉途中の位置で止まらないということである。閉じている状態が通常であり、斜めのデザインとドア自身の重みから、常にドアは「閉まろう、閉まろう」とするので、乗り込む客は自分の体が車内に収まるまで、この斜めドアを押さえたままでないと、ドアに挟まれてしまうのである。したがって乗車の際には自分の体が半分ほどカンチルに収まったところで、ドアを保持した手を離すと今度はドアが客のお尻をポンと叩く。このドア、乗り込む客にはまるで「のんびりしていないで早く乗りなさい!」と言わんばかりである。そして、降車の際も同じである。客が降りる時にはその客の体の大きさ分だけ開き、手で押さえていない限り、ドアは勝手に閉まろうとするのである。必要な量だけ開閉する半自動ドア、なのである。ジャカルタの交通において、客がゆっくり乗降しているヒマはない。この合理的かつ高効率の装備は、あえて装着されたのか、それとも偶然そうなったのか? 「トロトロしている時間はないよ、トットと乗ってトットと金払って降りてってよ!次の客を探すんだから!」そんなカンチルから運転手の叫びが聞こえた。 駐在員たちは今日も、自分たちは日本人であることの誇りを保ちながらも、当地の製品の隅々で「追いつけ追い抜け」と常に前進を狙っている現地の人たちの勢いを強く感じ、負けるものかと意思を固くするのであった。
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