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第44記 2004年11月16日
今年も新年を迎えた。イスラム教での正月のことである。今年は11月14日(日)。多くの企業や学校も1週間ほどの連休に入った。断食明けの大祭「Idul Fitri:イドゥル・フィトゥリ」をインドネシア語ではlebaran:レバランというが、この時期、ジャカルタの都会に住む私には、この「大晦日」のお祭り騒ぎが年々小さくなっているような気がする。確かに、それぞれの団体や組織ではそれなりの式典を行っているのであろうが、以前は自宅から、それはそれは新年を迎える直前の夜は(断食明けも重なって)爆竹に花火に太鼓に踊りに、ちょっとした深夜のパレードが街中見られた。数年前に爆竹使用を政府が禁止したこともあってか、迫力のあるパレードは激減した。今回の大晦日は太鼓に音楽を鳴らして走るたくさんの若者を乗せたトラックを数回見た程度。それも自宅から少し遠くの方で、しかもその音は12時過ぎると殆ど聞こえなかった。(以前は朝方まで踊っていたような記憶がある)。この変化を「大晦日を家族と一緒に静かに過ごす」という良い回帰とみるか、それとも、都会の若者たちが全く別の大晦日の過ごし方を選択できるようになった、その現実の世の中とみるか。 私は大晦日のその日、インドネシア人の友人2家族と一緒に、ジャカルタ都心部のあるショッピング・モール内のレストランへ食事に行った。そのモールでは、夜遅くまで駐車場に入りきれないほどの車とお客さんを見た。同じインドネシア人でもイスラム教徒でない人々にとっては、その日は大晦日というより単なる大型連休の始まりに過ぎないのだろう、家族やカップルで食事や買い物をする姿がいつものようにあった。 インドネシアもこの時期、お歳暮を贈り合ったりする。また、大祭を迎えれば、集団で礼拝を行う他に、お墓参りをし、親戚や友人を訪ねて挨拶をし、そして大人は子どもにお年玉をあげる、、、日本での正月と変わらない。気温が30度あることを除けば。。。 さて、それでは駐在員たちはこの時期、どうやって過ごしているのか。自宅にいても、運転手さんやお手伝いさんも、その多くは田舎へ帰省するようだ。報道ではインドネシア全国で今1,700万人もの人々が移動しているらしい。すっかり都心は穴が開いたような状態か。この時期、現地が正月休暇を迎えるために国内や国外へ旅行する駐在員やその家族も多い。旅行をしない駐在員たちも、、、いや、何かしら動いているであろう、何かしらしているに違いない(溜まった仕事を今のうちにせっせと片付ける駐在員も少なくないはず)。 この大型連休は、都会の喧騒から逃げ出すにはよい機会であるが、そればかりでは地元のイスラム教徒のインドネシア人たちが大祭をどうやって過ごしているか分からない。興味本心だけでなく、理解への近道としてこの点に触れておいて無駄ではないと思う。毎日助けてもらっているわけだから。 駐在員たちは今日も、現地における企業で戦う者として、あるいは家庭でやりくり日々健闘するその家族として、普段仕事や家庭で世話になっている周囲のインドネシア人たちの暮らしぶりを 自ら深く理解しようとする努めは弛めないのであった。
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第43記 2004年11月2日
イスラム教徒にとって当地は現在、ramadan(ラマダン:イスラム教暦の9月)であり、断食を行う時期である。その期間約1ヶ月。日の出から日没までの間、飲食を一切しないのだが、10年以上当地に滞在する私が過去に断食を挑戦したのは数回ほど。いや数日ほど、が正しい表現だ。職場で、それも周囲の雰囲気に流されて、というか一緒にやってみようという軽い気持ちが最初だった。が、どうも空腹は「自分には合わない」ようだ。そう勝手に決めつけている。 しかし、ここ10年ほどで断食期間の街の様子もずいぶんと変化してきた感じがする。そもそも断食をする人としない人が存在するここインドネシアだが、まず、ショッピングモールなど、派手で高級なその中では、以前ほど目張りが多くない気がする。ガラス張りのレストランなどに施されている目張りは、建物の中で食事をする人が見えにくくしているわけだが、これは外を歩く断食中の人にも、同時に中で食事している人にも配慮されているのだ。その目張りが、街中では以前より少なくなっている気がする。それに断食期間中は閉店、という店もそれほど多くない。これは最近のジャカルタ大都心で感じる私の感想だ。断食期間中に断食をしない人の比率が高まっているのかもしれない。 ところがこれが車で1時間ほど走った私の勤務場所(西ジャワ州)まで来ると、10年前とあまり変わらない光景が残っているのである。昼間は目張りをし、断食中は店を夕方から開店する食堂、断食中はネオンを切るお店。ジャカルタもちょっと路地をすすめばこういう雰囲気だった気がする。こうして私は、自宅と勤務場所を往復するだけで、毎日10年のタイムスリップを体験しているのである。 そんな田舎に、、、断食だけでなくついに異変が起きた! こんな田舎にはあと数十年先か、いやもうずっと実現しないかもしれない、、、と思っていた夢の出来事が起きたのである!なんと、ブロードバンドがやってきた! 異変とは言いすぎた。しかし、私にはあまりに急に転がってきた変化に感じ、どう対処してよいか戸惑っている(別にオロオロすることでもないが)。それまで、「ミスター、時代はデジタルですよ。どうです、今のうちに敷設しておきません?」と業者に声をかけられISDN、つまりデジタル回線を会社に引き込んだ。将来を見込んだつもりだった。しかし、そのケーブルは会社の事務所から会社の正門まで繋がってはいるものの、肝心な「会社からその先」がつながっていない。その先がアナログ回線のままである。なんというか、まるでジェット機に乗って沖ノ鳥島に向かうようなものか、、、(沖ノ鳥島には滑走路も無く着陸できないのでジェット機で行っても舞い戻るだけ、の図)それでしばらくの間、低速インターネットで諦めていたのである。 私が初めて所謂ブロードバンドを体験したのは去年、香港のホテルである。あれよあれよという間にデータがインターネットと自分のパソコンの間を行ったり来たりするではないか!その速度に衝撃を受けた昨年の出来事はまだ脳裏に新しい。パソコンを使う方、皆さん共通だと思うが、使用期間が長くなるほどデータが増え、扱う頻度も増え、それ相応の速度をもった通信網も必要となる。私は、ヤギや鶏がウロウロしているここジャワの田舎で勤務しながら、いつもいつも悶々としながらインターネットにぶら下がっていたのである。何年もの間。 それがついに、ブロードバンドである。ADSLではあるが、数値上の速度は何倍にも跳ね上がり、ついでに私も跳ね上がり、従業員も大喜び。しかし今度は「え?まだ受信してない?ブロードバンドで速いはずなのにおかしいなあ、もう一回送ってみるわ」と無駄な電話をしてくる始末。 10年の間にこの田舎町も進化した。しかし、千年以上続く断食のスタイルは変わらないのである。 駐在員たちは今日も、1年と10年の時の比重を確かめながら、歴史と変化の重みを感じ、そして常に自分がその流れの中に存在していることをしみじみと実感するのであった。
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第42記 2004年10月19日
最近、自分の体を酷使しすぎか、疲労気味と感じることがある。それは、先週誕生日を迎えて1つ齢を重ねたことが原因というより、相棒が入院してしまったことの精神的ショックも理由の1つだろう。相棒とは、、、自動車である。私を毎日会社に、家に、いろんな所に安全に送ってくれる大切なあの自動車である。その自動車が、私よりも運転手よりも先に倒れてしまい、現在、修理工場に入ったまま出てこないのである。 年齢は満6歳。血圧、いや、走行距離はなんと42万km。地球10周以上の距離を走ったことになる!ちいさい切り傷は勲章。運動靴であるゴムタイヤは何度新しいのを買ってあげたことだろう。ドアの関節や節々が痛いと言っては、最高のグリスを軟膏代わりに擦り込んであげてきた。一度、前面ガラスに極小の傷が見つかった時、「瞳が濁るから」と全面そっくり新品に交換したことがあった。保険証を持っていたので手術代は殆どかからなかったが、実はあれはオリジナルのガラスではなかったと、後から聞かされた。すまん相棒、君には悪いことをした。でも、B級品も悪くないようだ。よく豪雨もはじいてくれているではないか。そういえば、あまりの暑さといら立ちから、何度も湯気を出したことがあったな、ラジエータから。目抜き通りでエンコした時はとまどったが、なんとか怒りを鎮めてくれてありがとう。でも、二度と吹き出さないように、担当医はラジエータ上部を鉄で固めてしまった。あれは早く元に戻さないと。。。 そんな私の相棒(愛車)がついに変速機ギア交換である。大手術である。 その日、私は夜の高速道路を走っていた。運転手曰く、「ギアが入らない!」 ついに相棒は、渋滞する夜の高速道路の中央車線で完全にストップ。周囲は車がバンバン流れていたのでど真ん中で停止しているのは非常に危険だ。メーカーの緊急サービス車両を電話で呼んだが、それまでの間、少しでも安全な場所に移動しようと運転手と2人で相棒を押し始めた。暑いわ恐いわ。数百mも移動できなかった。料金所近くに人がいたので、高速道路の無料(と言っても心付けはするが)レッカー車を頼んだ。30分後、このレッカー車に引かれて、ようやく道路の路肩へ移動。そこで、サービス車を待つことにした。 もう車道上ではないので、後ろから車が追突してくる危険はなくなった。しかし、他の危険があった。それは犯罪の危険である。その料金所裏手付近、そこは薄暗く、やぶと道路に挟まれた、いかにも犯罪が起きそうな薄気味悪い場所であった。治安の悪さで知られるその場所で、レッカー車はここでサービス車を待てと言う。私は車内で待つことにしたが、その間、バスやバイクの他に、周囲は変な叫び声や不気味な売り子、しゃがんで何をしているか分からない人たちが大勢いて、とても不安であった。すると、私の車のドアを開ける音がする。あ、誰かがノブを触っている!「Ada orang ya(アダ オラン ヤ:人が(車中に)居るぞ)」と車外から声が聞こえて振り向くと、車の周囲を囲むように大勢の人が私の車にもたれて方々でドアを開けようとしている!このときはさすがに焦った。幸い、車外で見張りをしてくれていた運転手がうまく追い払ってくれたので事な気を得たが、生きた心地はしなかった。相棒のボディー、みんなに押されて凹んだのではないか?このときは、本当に相棒の強さを感じた。ありがたい用心棒である。こういう地域では、外国人は、はっきり言って「狙われやすい」。 それから約30分後、サービス車が来て相棒を修理工場まで運んでくれた。つくづく、相棒の健康の大切さを感じた日であった。健康な車がないと暮らせない。 駐在員たちは今日も、当地では自分の足の確保がいかに大切かを認識し、少しでもリスクを回避できるよう、情報収集と準備は怠らず、自分の体同様に自動車の健康管理にも気をつけるのであった。
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第41記 2004年10月5日
今週もまた感動してきた。私は毎日のようにいろんなことにすぐ感動してしまう単純な人間だが、今回の感動も涙をポロポロ流すまで心を揺すられた。 それはジャカルタ日本人学校(JJS)で行われた「第5回JJSフェスティバル」に参加してのこと。第33記(2004年6月29日)でも触れたが、JJSのいくつかある行事のうち、動員数や、準備期間そして実働日数も規模が大きく、多くの大人や子どもも一緒になって活動するのが体育祭やこのJJSフェスティバル。小学生や中学生たちが自分たちの研究の成果を発表したり、合唱や美術作品を披露したりする、年に一度の大きな祭典である。軽食を作って販売する模擬店も生徒たちの手によって運営され、約850人の児童・生徒たちは、2日間に渡って行われたこのフェスティバルで、きっと大きな収穫と経験をしたものと信じる。その間、天候にも恵まれ、近隣の学校からの参加や、保護者有志の参加などもあり、その盛り上がりはとても熱かった。 私が中でも感動したのは、学習の発表である。クラス毎にテーマを決め、舞台での発表。ミュージカル調あり、環境についての発表あり、コント調での日イ文化比較発表あり。。。実は私も準備の段階からPTAとして参加し、何十年ぶりかの工作をした。段ボール箱にペンキを塗りながら、いろいろ思い返した。自分が小学生だった頃を - 友だちと喧嘩しながら徹夜して作品を仕上げたなあ、中学では文化祭で長を務め、そうそう、研究発表で気球を上げたら上がりすぎて山を超えて隣りの村まで飛んで行った。みんなで追いかけたなあ、文化祭最終日のフォークダンスをドキドキしながら待っていたけど、その直前に友だちと大げんかして病院に運ばれ、結局踊れなかったなあ - そんな過去のことが一気に思い起こされ、、、私のペンキ塗りはいっこうにはかどらなかったが、、、しかし、JJSフェスティバル本番を体験し、子どもたちの一途で、そして目標に向って団結して進む姿は美しい。その発表が成功すると、とても感動するのである。 皆で協力する、協調する、ということの意味を、私は会社でも大切にしている。どんな短期間の期間工が入社しようと、ある程度の人数でグループを作り、そしてそのグループに教育をする。座学であることもあるし、実地研修であることもある。数時間でも数日間でも一緒に動き、同じ目的を持って一緒に学習していると、かならず同期の絆が生まれると信じる。そうすると、そのグループ解散後も、一緒に行動した同期同志の互いの心の距離は一気に短くなると思うのである。同期生の繋がりとは、多くを語らずとも「お互いに分かり合える関係」であることだと思う。たとえ学習後に分からないことがあっても、先生や親に頼るだけでなく「同期を頼る」という選択肢も増える。また、そのことが同期(友人)の絆をより一層深める。だから、わざわざ遠距離通学をし、学校でクラスに属して他人と一緒に勉強するのは、人間にとってたいへん深い意味があると感じるのである。 さて、2日間に渡る行事を子どもたちは元気に無事やり遂げた。そもそもJJSの子どもたちは、日焼けしている子が多いので、そのままでも元気ハツラツに見える。当然中身は外見以上にみな元気である。最後にフォークダンスこそなかったが、自分の子どもも、人の子どもも、そして先生方も他の大人たちも一緒になって、成功を目指す姿は、美しいという表現の他に言葉は見当たらない。駐在員のお父さんたちもこの日はたくさんお手伝いをしたようだ。 駐在員たちは今日も、自分自身はノスタルジックに心は揺れながらも、過去に振り回されることなく「一緒に」という言葉を大切に、将来の駐在員候補もいるかもしれない子どもたちの経験ために積極的に協力するのであった。 ジェイピープルメインページにもどる |