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第60記 2005年12月15日
いよいよ世間は年末に向け、急ぎ足で動きはじめている。街中は人々が溢れ、駐車場も満車が続き、きれいでおしゃれに彩られたクリスマスの飾りはそんな我々を時に癒してくれる。クリスマスのイルミネーションと言えば、今年は特にブルーを基調にしたLEDの照明を多く見る。LEDに光の三原色(赤、緑、青)全てが揃ったことで、多種多様な色の光がLEDで表現できることになったわけであるが、特にいま、繁華街はブルー、ブルー、ブルーである。今年12ぶりの日本のクリスマスを体験する私には、おどろきと新鮮さのミックスだ。球切れの心配がなく、小さな光を演出できるLEDだが、そのムラのない均一な明るさが「暖かみにかける」と、あえて電球派で照明を続ける人もいるようである。
インドネシアでもブルーLEDが流行っているのであろう。思い起こせば、インドネシアでのクリスマスのデコレーションも楽しかった。雪を見たことのない人が飾り付けをしたのであろう、クリスマスツリーの葉の裏側に雪(白い綿)が着いているのを見たことがある。葉の裏側に雪、、、これはきっと、吹雪の日だったのであろう。雪道を歩いたことのない人が描いたのであろう、長靴でなく裸足にサンダル履きのサンタクロースの絵を見たこともある。サンダル履きのサンタクロース、、、これはきっと、サンタの寒中稽古だったのか。
Lebaran(レバラン:断食明け大祭)と重なると少し様相もかわるが、大方の場合はインドネシアでもクリスマス装飾は12月に入ると始まる。しかし、その終了の時期は日本と違って遅い。ツリーもサンタも照明も、インドネシアではクリスマスのデコレーションは大晦日を迎えるまで続いているのである。日本ではイブを過ぎると半額どころか、ショーケースにも並べられることも少ないクリスマスケーキも、インドネシアでは、25日も26日も堂々と売っている。それも定価で。生クリーム製が少ないことも長期間の販売を可能にしてはいるのだが、長い間に渡ってクリスマスを楽しめるという点では、インドネシアの方がお得な感なのである。日本のクリスマスが、もうあと10日もしないうちに「終わってしまう」のに比べれば。
私にとっては、12年ぶりのクリスマスも、いやそのあとにくる大晦日や正月も、失敗しようが成功しまいが、これまでは「久しぶりだから」という言い訳もできた。が、来春からは私も「帰国2年生」になる。いつまでも「帰国子女なので」と逃れ回っているわけにはいかない。帰国したこの2005年を振り返ってみると、この10年の間にあった日本や日本人の変化によく気付くことができたし、帰国後に日イのために活躍する多くの人の存在も知った。帰国3年生、4年生になっても、インドネシアでの経験を忘れることなく、社会や自分のために出せる知恵は出し続けて行きたいと思う。
帰国者たちは今日も、どんな場面においても駐在していた経験を誇りとして忘れることなく、そのバッジを心から外さずに、自分を磨き続けて行くのであった。
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第59記 2005年12月1日
帰国して8ヶ月過ぎた。まだ本格的な越冬は未経験だが、近隣に住むインドネシア人に会う機会も少しずつ増えてきたので、気温は低いが心は温かい。日本で会うインドネシア人とは、それこそ駐在員、留学生、新妻、いろんな立場の人がいるが、どの友人もインドネシアで会うインドネシア人とはまた違った雰囲気である。
それは、彼らが「日本に住んでいるから」であろう。母国や地元ではない他国に「外国人」として住んでいる彼らは、それなりに意識があり、心構えもあり、また制限や条件もあることであろう。自分が過去に外国人としてインドネシアに住んでいたことを思えば、その気持ちや状況はよく理解できる。
インドネシアのアンクロンに再会した。知人の案内でそのワークショップがあるのを知り、興味があったので出かけてみた。会場には、数百人の親子連れ。主に日本の小学生を対象にした「体験勉強」であったが、初めて見るアンクロンをみな不思議そうに眺めていた。少人数に分かれてアンクロンの音階や楽譜を習い、そして演奏を体験していくのである。が、肝心のアンクロンを指導するインドネシア人インストラクターの絶対数が不足していた!そこで、私がでしゃばって、臨時指導者にうって出たわけである。(アンクロンの楽譜だって読めるのだ)
日本人親子の皆さんに、持ち方や音の出し方を教える。ここまでは私にもできた。しかし、だんだん高度になり、アンクロンの歴史などを質問されると、答えに窮する。そこで、インストラクターにインドネシア語で聞いてみると、彼らもよく分からない、という。なんのことはない、彼らは単なる留学生だったのだ。
インドネシアの文化紹介、とはいいつつ、実際には本格的な習得を目指すプログラムではなかったので、これはこのレベルで良かったと思う。が、中には期待して参加した方もいたようで、その方たちにとって見れば、「なぜ、インストラクターなのに答えられないの?」という疑問をもたれたのかもしれない。この人たちは、単なる留学生である。インドネシア人全員がアンクロンを知っているわけではないのである。
振り返って我々日本人も、外国の人から見れば、日本のことは何でも知っている日本人、と見られているかもしれない。知らないことは知らないとはっきり言った上で、聞かれた内容にできるだけ対応できるよう努力したいものだ。自分が駐在中にも、インドネシアの友人たちはこうして一生懸命調べたり探したりして、我々の要求に応えてくれていたことを思い出す。駐在中は「え?日本のこと?いやあ、いま日本に住んでないからよく分からないよ」とごまかせても、帰国後はそうはいかない。
帰国者たちは今日も、あらためて日本の歴史や文化を再認識し、堂々とそれらを自分の言葉で表現できるよう、日々の勉強を怠らないのであった。
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第58記 2005年11月15日
当地はHari Raya Lebaran(ハリ ラヤ レバラン)「断食明け祭日」を過ぎ、会社も学校も、その長い休みから明けて再び活動を始めたことであろう。私も駐在中は、その行事の時期になると周囲の環境に「ああ、今年も来たなあ」と感じたものである。街にはlebaranの飾り付け、毎年耳にするlebaranの音楽、レストランのlebaranメニュー、かけ合うお祝いと懺悔の言葉に贈り合うカードとプレゼント。そしてそれを商機にするさまざまなビジネス。これらは、四季のないインドネシアでは数少ない「季節」を感じることのできる大切な行事である。これがなければ、毎日「いま何月?」となっているかもしれない。
しかしそれも今は懐かしい思い出となった。帰国して現在日本に住む私には、今も仕事上のつながりがあるので当地のpuasa(断食)期間やそれぞれのhari raya(祝日)などを意識するが、そうでもなければ、インドネシアのカレンダーや行事を意識することはないだろう。しかし、日本においてもインドネシアのカレンダーを必要とする人たちがいる。それは日本に滞在するインドネシア人たちだ。
先日、私の帰国とほぼ同じ時期に日本に来たというインドネシア人に会った。彼は日本の国立大学に留学している。私からlebaranの挨拶をすると、まさか日本人からその言葉を聞くとは思いもよらなかった様子で、たいそう喜んでくれた。彼にとって異国で迎える初めてのlebaranであったので、興奮もしたことであろう。一方、日本に住んでもう何十年という別のインドネシア人の知り合いは、私の同じ挨拶の言葉に「おおお、レバラン、、、忘れてた」という具合である。長く住めば、その地の「季節」に丸め込まれるのであろうか。
いろんな行事が行われるが、いつも「暑かった」インドネシアと比較すると、日本帰国後は特に行事に触れなかったとしても、体が季節の変化を感じ取っているのが分かる。
実は、いまこの文章をキーボードを打って文字入力しているが、、、実は、私の手はかじかんでいる。室温18度無風。机に置いたパソコン、姿勢よし。しかし指先は冷たく、思うようにキーが打てない。ついこのあいだまでパソコンの冷却に頭を悩ましていたのが、今度は自分の指先の動きに苦労している。なんとかパソコンからの熱気に手助けされている感じである。12年ぶりの越冬者のために、パソコンメーカーは「ヒーター付きキーボード」を開発してくれないものか。ライト付きキーボードは出ているが、あれなら少しは温かいのであろうか?
帰国者たちは今日も、日本での四季の味わい方を思い出し、帰国後に徐々に戻る日本人の体への変化に驚きつつも、いたわりねぎらい、時に涙しながら越冬準備をするのであった。 |
第57記 2005年11月1日
前回は駐在員妻の話を書いたが、元駐在員同士の絆も強固なものである。先日、元インドネシア駐在の仲間たち数名が寄り合う機会に恵まれた。この仲間は駐在当時に趣味を共にするグループに所属していた関係もあり、そのつきあいの深さと友情はより深いのである。「集まるぞ」と一声かければ、その日ジャカルタ出張から帰国したばかりの友人もこの寄り合い会合にかけつけ、そんな彼のスーツケースのまま会場の居酒屋に駆け込む姿を見ると、我々のつながりの深さに大きな自信と安心を持つのであった。
インドネシア駐在時代は、特に98年ジャカルタ暴動を機に、それ以前から駐在する人を「戦前組」、暴動が発生した後に赴任して来た駐在員を「戦後組」などと、分けて表現していたこともあった。そういう分類をするほどでもなく、いまなお社会的不安要素を現実問題として抱える同国では、どんな時であっても、突然「駐在できなくなる」状態に陥ることも考えられる。駐在できない、ということは「駐在員として当地で仕事ができなくなる」ことも指すわけで、皆そういうリスクを背負って日々暮らしていると言える。そんな意識が心のどこかにある中で毎日を送る駐在員たちは、それがストレスにもなるだろうし、またそれが「和らげる必要のある精神負担」でもあるのだ。そして和らげてくれるその一つが、身近な友人なのである。
同じ釜の飯を食った仲、とはよく言ったものだ。その日集まった数名の元駐在員たちは、駐在理由や時期、それに期間はそれぞれ異なるものの、数年ぶりに会ったにもかかわらず、わずかばかりの近況報告で、空白であった互いの知らない期間を瞬時に想像できてしまう気がした。現実には、その想像通りでなかっただろう。しかしあの苦しかった、楽しかった、そんな時期を同じ目的をもって一緒に過ごした仲間だからこそ、空白の時期がどうであれ、今のお互いを知れば、その間お互いにどんな努力をしてきたかが容易に想像できてしまう、そんな気がするのである。こんなに楽しいこともあれば、こんなに悲しいこともある、そういう起伏の激しい駐在員生活を送った者同士にだけすぐ理解できる、精神的つながりを感じるのである。
海外駐在は、インドネシアのそれもジャカルタ近郊しか経験のない私だが、他の国に駐在した人たちにも、それぞれの「同じ釜」があるはずだ。釜の大きさや形は異なれど。
帰国者たちは今日も、日本での楽しさ、辛さ、嬉しさ、悲しさを駐在時代の頃と思い比べ、今なお助け合える駐在時代の友人たちを心に置いて「同期の桜」という言葉も深く思い浮かべるのであった。
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