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第52記 2005年8月15日
気温も最高値に達する日が多い、本格的な日本の夏。私の現在の日本の仕事場は、とあるビルの3階の一室。3階といっても、隣も裏もより高いビルに囲まれ、4面ある部屋の壁のうち3面には窓があるものの、開けるとそれは隣のビルの一室が丸見えだったりするのである。隣ビル同士お互いが偶然に窓を開け、顔をあわすことになっても、表玄関からの交流がないので「あ、どうも」くらいしか挨拶できない。それに隣や裏のビルとは、同じ3階の位置でもわずかに高さが異なるので、どちらかが「見下ろ」し、どちらかが「見上げ」る動作となっての「あ、どうも」である。別にその高さの上下関係が会社の規模を示すわけでも、ましてや人間の価値を表すわけでもないのに、わずかな高低差に反応してしまう自分が恥ずかしい。ちなみに私のいる事務所周辺は建物の高さ制限があり、それを超えない範囲で建設しようとされたため、同じ高さのビルでも10階建てであったり12階建てであったりする。つまり、一階分の高さが異なるわけだ。見た目は、並んでいるビルの高さの上辺が一律できれいに揃って見えるが、建物それぞれの窓の位置はまちまちなのである。
さて、窓を開ける習慣であるが、インドネシアでは掃除の時ですら窓はあまり開けなかったような気がする。冷房のない民家では、そもそも窓がない家も多い。いや正確には「壁がない」である。つまり普段から開けっ放し状態なので窓を開けるという動作は発生しないのである。一方、高級な家々では、冷房完備しているので、ホコリや熱気を嫌って窓を開けない。またそういう家で掃除を担当するお手伝いさんの多くは、上述のような壁のない開けっ放しの家で育ったために、教えられない限り掃除のときに窓を開けることを知らないかもしれない。思い起こせば私も、インドネシアで勤めているときは大掃除のとき以外、窓を開けたことがなかった。年中暑いので、年中冷房。ホコリや熱気を嫌っていつも窓は閉めていた。日本では四季があるため年中冷房をするわけではないので、室温を調整する目的で窓を開閉することもある。窓開閉の習慣があるのである。
帰国後の私は、まず出勤後にすぐ部屋の窓や玄関を開け空気を入れ替える。しばらくしたら、玄関は閉め、バルコニー面の窓だけを開けている。実は日中気温が37度Cに上がるような日でさえ、机の上で作業している分には、これまで冷房なしで窓を開けた状態で私は耐えられた。「28度Cを冷房ONの基準」にしているところも多いようだが、私は室温30度C前後ならそれほど暑く感じなかったのである。環境にも良い、とそれで通していたのだが、ついに冷房をせざるを得なくなったのである。その原因とは、開けっ放しのバルコニーに設置されている、ほかの事務所のエアコン室外機からの熱風である。開けた窓からその熱風が部屋内に吹き込まれ、私の事務所はあっという間に35度Cに!おまけにホコリもすごい。自分を守るため、仕方なしにバルコニー窓を閉め、冷房するのであった。
それでも、ほかの事務所が休みの時などはその室外機は動かず、熱風も入り込まないので、私はバルコニーの窓を開けることができる。と、思っていたのだが、それも打ち砕かれた。室外機熱風はないのだが、どうしても窓を閉めなければならない状態になったのである。それは「悪臭」が原因であった。近くで始まった工事現場から発生している悪臭。窓を開けているとその悪臭が遠慮なしに部屋に侵入し、漂い、気持ち悪くなる。自分を守るため、仕方なしにバルコニー窓を閉め、冷房するのであった。
インドネシアでの勤務時代は「暑いから冷房」していたし、冷房を入れるも切るも自分のお好み次第で自由であった。日本に戻って来てからは、たとえ暑くなくても「防衛のための冷房」である。環境問題も大切だが、まずは自分の身の安全確保を優先に考えてしまう。
帰国者たちは今日も、駐在当時の環境を思い出しながら、日本国内で自己防衛に努めるために最先端機器を操るのであった
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第51記 2005年8月1日
帰国してからというもの、仕事以外では全くインドネシアに関わることはなかった。が、駐在時代の友人のおかげで、とあるグループの仲間に入れてもらえることとなった。このグループはインドネシアからの帰国者やインドネシア語を勉強する人たちが集っているグループで、メンバーが若いのが特徴?である。そしてそのグループのおかげで、あるインドネシア料理のレストランを知ることができた。そのレストランでメンバーと会合をした日のことである。
大雨であったにもかかわらず、週末のこの夜、その店内はすでに満席で、スタッフであるインドネシア人や日本人が忙しく動き回っていた。私はインドネシア駐在時代、外観を現地人に間違われることが少なくなかったが、この日この店でも同じ現象があった。レストランのスタッフに間違われたのである。いやあ、確かに私にそっくりな人が店のウェイターにいるな、と気付いた瞬間、別のお客さんから声がかかり「すんませ~ん、ビールあと3本追加して、、、あ、ごめんなさい、間違えました」かろうじて、私が店のスタッフとは違う服装であったので、その方は途中で気付いた様子である。———はい、私は客です。それも日本人です。最近、帰国してからというもの、色白になって(元の色に戻って)、すっかり日本人らしく見えるようになりました。お尻も真っ白です。いや、お尻はもともと真っ白だったのですが、お尻と太モモの日焼けの境界線が殆どなくなり、まるでお肌が若返ったようです。でも、シミには勝てません。———そんなことをその一瞬につぶやいた。もちろん、心の中で。
インドネシア駐在時代は、やはり強い紫外線に当たる機会が多かったのであろう。外に出ればほぼ毎日炎天下。普通に暮らしていても、真夏の毎日で肌は焼けていたのだと思う。白さを保つ方が困難だ。そんな暮らしを10年以上続けてきた。そして帰国後は逆に焼けた肌を保つのが困難で、一気にそもそもの素地に元通り!と言っても、お肌のツヤやハリまでもが10年前の姿に戻るわけではない。当たり前か。シミには勝てない。無駄な脂ものっている。白くなると、こういう部分が余計に目立つのである。カメレオンのように色変化した私も、今後は冒頭のお客さんに、もうインドネシア人に間違われることはないであろう。
短時間のうちにそんなことを考えながら、そのレストランのスタッフを眺めていると、、、どうも色白のインドネシア人が多いような気がした。インドネシア人も、日本に長く住むと、色変化するのであろうか。今度、お尻の境界線を見せてもらおう。
帰国者たちは今日も、本当に帰国したことを自分の体の変化からも実感し、外観だけでなく内部の変化も少なくはないと、帰国後に現れる自分の体の変化や症状に興味を持ちながらも観察するのであった。

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第50記 2005年7月15日
帰国してはや4ヶ月。それが長いか短いかは気に留める事もなく、毎日があっと言う間に過ぎて行く。12年前、インドネシアに向かうときは「他の世界を知らないから行こう!」と決心した。そして12年後、日本に戻るとき「日本のこともっと知っておかなければならない!」と感じてインドネシアを後にしたのも事実、一つの理由でもある。
私の妻にとってはどうであろう。思い出すと、やはり12年前。妻に「インドネシアに行くぞ」と言ったとき「え?なんでインドネシアに行くの?」と聞かれた。そしてやはり12年後、「日本に帰るぞ」と言ったとき、「え?なんで日本に帰るの?」と聞かれた。自分一人が周囲を振り回していることに申し訳ないと思いながらも、支えてくれる家族には特に感謝している。
子どもたちにとってはどうであろう。現在小2と幼稚園の男児2人。子どもたちは親について行くしかないのだが、しかしそれでも同じ質問を受けた。「なんで日本に行くの?」と。すでに子どもは子どもなりに生活の基準や交友関係を構築していたわけである。友だちと引き離すのは辛いが、新たな出会いもあるよとなだめて一緒に帰国した。駐在員家族は多くがいずれ日本に戻る、という認識があったようで、自分の帰国の番が来たか、くらいにしか感じていなかったかもしれない。子どもたちは今、生まれて初めて暮らす日本の地で、少しの戸惑いは持ちながらも元気に過ごしてくれている。
とにかく、子どもたちを見ていると、驚く事が多い。日本人なのに、初めて日本で暮らすのだから、毎日の暮らしぶりで発見が多い。まず雪の降る3月に帰国してすぐ、4歳の二男が、「パパ、日本はどうして毎日クーラーしてるの?」
いや、3月の日本は冬なのです。寒いのです。確かに冬という季節を知らなければそう感じるかもしれない。そういえば、以前真冬の新潟にインドネシア人女性を連れて行ったとき「わあ寒~い!まるで冷蔵庫の中に入ったみたい」と彼女が言っていたのを思い出す。(冷蔵庫に入ったことあるのか?)続いて二男「なぜ家が小さいの?いつ広いうちに引っ越すの?」ごめん、お父さんのかい性がなくて。。。でも、以前は家の中は広かったけど外は狭かったでしょ(外で遊ぶには制限があった)、でも、今は家の中は狭いけど、家の外は広いでしょ(自転車でその辺りまで一人で行ける)、と言って納得させる。「日本はインドネシア人いないの?インドネシア語話す日本人もいないね」なるほど、インドネシアでは日本人みなインドネシア語上手に話していたからね。「なぜスーパーで買い物したらレジの人は袋詰めしてくれないの?」お、鋭い観察力。日本はみな自分でやるのですよ、自分でしなければならないということは、自分で「できる」ということ。インドネシアでは外国人として周囲に助けられながら暮らしていた。自分でしなくても良かったが、それは自分では「できない」ということでもあった。
車が好きな長男は「日本はキジャン(トヨタの現地生産車)走ってないね。でもカローラ走ってるね」と。あのね、カローラはもともと日本の車なのです!「パパも運転できるのかぁ」そうそう、そういう父親の姿も見せねば。。。と、毎日がこんな具合である。このまま続けると「日本はなぜシリーズ」のコーナーができそうなほど、子どもたちの「なぜ?どうして?」は今も続く。
私が初めてインドネシアの地を踏んだとき、毎日が新鮮な発見であったように、いま子どもたちは日本人でありながら日本を新鮮に眺めるチャンスを得ている。その発想がよりよい日本の成長の一助となればと期待している。
帰国者たちは今日も、帰国して戸惑うのは自分だけでなく家族の心も気に留め、少しずつでも周囲と同調し、しかしながら自分の体験を大切にし続ける配慮をするのであった。

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第49記 2005年7月1日
空港でのお客様の出迎えや見送りは、当地に限らず駐在員にとって大きな役目の一つだと思う。93年、私が初めてインドネシアの地に降りたとき、迎えてくれたのはこれから一緒に会社を運営して行くインドネシア人のパートナーであった。それからというもの、私は当地に来られる方と当地から出られる方を、出迎えては見送り、出迎えては見送り、11年半続けて来た。自分が出迎えられることは、最初の一度だけであった。
が、ついに、来た。自分が見送られる時が来たのである。
第48記からしばらく音信不通ですみませんでした。
なんと私はその間に、日本に帰国していたのです。もう駐在員ではありません。2005年の3月に、大勢の友人たちに「見送られ」当地を離れました。あまりにもたくさんのことに驚き、あまりにもたくさんのことに気付き、そしてあまりにもたくさんのありがたさを知りました。長い夢から覚めたような気もするし、新たな今後に緊張と興奮も覚えるし、また支えられた多くの友情の絆を大切にしていきたいとも強く思います。4,200日のインドネシアでの暮らしを近くに思いながら今、生まれた国、日本も全身で感じています。
ジェイピープル新装に伴い、今後は「駐在員、そして帰国後」を続けさせていただきたいと思います。すでに10年の時空がどれほどであったかを、日本に戻って来てから毎日のように感じています。帰国後もう100日が過ぎました。もう100日なのか、まだ100日なのか。そんなことを考えている間にすぐ日は過ぎる。毎日を大切にしていこうという気持ちは、駐在時代も帰国後も変えたくないですね。
引き続き、ご愛読いただければ幸いです。
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