続・坂井の駐在員記
第56記 2005年10月15日

男性駐在員たちの帰国後、その妻たちの動向は気になりませんか?どれだけの期間当地に暮らそうと、そこで生活した体験が帰国後、どのように影響し、どのような変化をもたらしているのか。

赴任時は、その直前まで職を持っていた妻、専業主婦の妻、すでに別居中であった妻、いろいろであったと思う。しかし、駐在員の大方を占める民間企業出向者の妻たちの、その殆どは、夫の会社からの辞令一つで、「赴任せよ」との命を受け、そして夫に付随して当地に向かうことになる。インドネシアで駐在員妻(含む家族)の取得する滞在ビザも「Ikut Suami:イクッ スオミ(夫に同行)」と記されている。妻のビザを見れば夫がいることが分かるが、夫のビザを見ても妻がいるかどうかは分からない。駐在員である夫のビザにも「家族帯同で駐在しています」とか「単身赴任中です」とかが一目で分かるビザがあってもよいかと勝手に提案するが・・・

話がずれた。そんな駐在員妻が帰国後、どういった暮らしをしているのか。行く時は日本全国、北は北海道から沖縄までの日本人が、インドネシアに向かった。もちろん赴任先は各地方にまたがるものの、合わせても1万人にも満たない日本人が形成する、インドネシアでの日本人社会は、狭いといえば狭い。最近は特に情報伝達も早く、そしてそれは同時にすぐ仲間になれるという利点もある。あえて日本人社会から距離を置く人も少なくないが、駐在員の代表である民間企業出向者の妻たちは、「まさか、あなたと結婚してインドネシアに行くなんて想像しなかったわ」という方が大半であろう。なので、赴任時はやはり不安もあり、友だちができるか、生活ができるか、それが一番の心配事であったろう。

しかし、先輩駐在員夫婦の方々のおかげで、当地ではそれなりの駐在員妻の暮らしを体験した妻たち。その妻たちは、今度も夫に合わせて海を渡った。今度はそれまでと違い、自分と同じ日本人が1億人以上住む日本という国に戻った訳である。埋もれてしまわないか。

ジャカルタで近所付き合いしていた日本人の友だち家族も、帰国後は元の北海道と沖縄に離れることもある。同じ日本国内なのに以前より距離が遠い。手紙や電話などで当時の生活ぶりを懐かしむことはあっても、次第に現在の暮らしに浸透していくことになる。そんな妻たちが共通して言うことには「日本では夫の不在が多い」ということらしい。出張が多い、残業が多い、会議が多い、接待が多い、、、日本はいろいろやることが多いということか。そもそも、当地への出張が多くなったので、現地に駐在せよ、ということが出向の理由であったならば、帰国後に出張が再び多くなる事も当然かもしれない。

駐在員は当地では、仕事も暮らしも、責任は重いものの、裁量範囲も広い。インドネシアでは1万人の内の一人であったのが、帰国後は1億人の内の一人になった。そしてその駐在員妻たちも、帰国後はあらためて妻として、母として、あるいは職を持つ女性として、みな無事復帰している。次第に日本の暮らしに浸透していくとは言ったが、滞在中に得た深いつながりをもつ仲間たちとは帰国後も連絡をとり合い、将来について語り合う機会も得ているはずだ。

帰国者たちは今日も、家族帯同で海外に住み続けた経験をうまく活用し、時に妻をなだめ、時に妻を叱咤し、話し合い、理解を深め、帰国後の家族生活が赴任前よりも豊かである事を気にかけ、祈り続けるのであった。

第55記 2005年10月1日

10月である。本格的に衣替え、である。私が帰国した3月には積雪もあったが、衣類等の引っ越し荷物が日本に到着したのは、桜も咲こうとしていた頃だ。届いたその衣類のほとんどは「夏服」であった。常夏の国に住んでいたので当然である。梱包を解かれた夏服類は、そのまま4月5月と、これから暑くなる季節に向けて、引き続き使用開始され、同時に冬服はタンスにしまい込んだ。今回はそれ以来の、衣替えである。冬服をタンスから引き出すのは、帰国後の初体験。衣替え、それはたしか12年前までは年に2回は行っていたはずなのだが、なにしろ冬を暮らしていなかったので冬服というものがもう殆ど家に存在しない。インドネシアから冬の日本への一時帰国をしのぐ為に使っていた、コートやジャケットはあるが、今のところ秋に着る衣類がまるでない。それは自分の分だけでなく、初めて越冬する子どもたちの分も新たに衣類を揃える(新たな出費)という恐怖につながる。そう思うと、南国での暮らしは一年中おなじような服装で過ごせることが楽であった。風呂上がりに裸で過ごしていても風邪を引く心配もあまりなかったし、厚手の衣類が少ないから洗濯や物干しも楽であった。とにかく普段着にかける出費は断然少なかったと思う。インドネシアで下着や靴下、普段着は安く購入できることも手伝って、家計のうち衣服代の占める割合など考えたこともなかった。

インドネシアには、自動車・二輪などの資本集約型産業、農業関連やパーム油、食品加工などの資源活用型産業、そして繊維業界など労働集約型産業が存在する。繊維産業は古くからインドネシアにおけるその代表の一つであった。しかし通貨危機以降、設備更新の遅れや技術革新の停滞により、国際競争力が低下したと言われている。インドネシアのショッピングモールなどを見て回っても、「Made in China」製品が占める割合が急増していると実感する。業界の者でもないのに知ったかぶりを言うのは失礼かと思うが、増大する地球人口に合わせて衣類の生産量は今後増えるのであろうか。それとも、このまま地球温暖化が進めば、人々の衣服はますます軽く薄い生地が増えていくのであろうか。

インドネシアの衣類店で販売の店員に「Cocok ya!(チョチョッ ヤ!:お似合いですよ!)」と言われるが嬉しくて、何度も店内で「衣替え」したことが懐かしい。秋物はインドネシア製の衣類を探して買ってみようと思う。

帰国者たちは今日も、長く住み続けたもう一つの故郷を思い出し、その国の産業や生活を気にかけ、帰国後の自分たちに何が協力できるかを考え続けるのであった。

第54記 2005年9月15日

そうして私の帰国のための引っ越しは、駐在最後の3日間で済ませたのである。4,200日も滞在した彼の地を、たった3日間、ほんの3日間で片付けてしまったような気がして、どこか申し訳なさが残らないでもない。いや、そんなことはないか、自分が引っ越し上手なのだ、と自慢しておこう。いやいや、違う。実際は私が引っ越しをしたというより、その大方を「引っ越し業者」さんが、やってくれた訳である。便利なサービスがあるものだ。最初の見積もり時に「だいたいこれとこれと、ああ、これも持って帰りたい」と、かなり適当な、それも想像だけで引っ越し荷物の量を業者さんに告げた。すると「3〜4時間で済みますよ」との答え。え?4人家族が10年近く住んだのだ、それに駐在員ならではの遊び道具(ゴルフ、水泳、テニス、ソフトボール、楽器、工芸品、日本では置き場に困る飾り物、日本では着る場所が限定される洋服、それに水槽とそこに住む魚たち)、それらの荷物をたった3時間程度で積み込めるのか?私の4,200日間はたった3時間足らずで閉じられてしまうのか?最初は疑っていた。そんな早く終わるのかと。しかし、さすがである。相手はプロである。

当日、約束通りの時刻にピンポ~ン、と階下の受付から連絡。そして作業スタッフがエレベータで我が家にやって来た。なるほど、3時間で4,200日が梱包される訳が分かった。その人の数である。作業してくれるスタッフが6人。それを監督するマネージャ1人。階下には見張り役を兼ねた運転手1人。あたま数で勝負である。作業の手つきは、それはそれは手慣れたもので、あれよあれよという間に、モノが運び出され、あっと言う間に家が広くなった。私はインドネシア滞在中に2度引っ越しを経験しているが、当時は自分で運べる荷物量だったので、その時は引っ越し業者さんを頼まなかった。海外へ荷物が渡ることになった3度目の今回、そのサービスのスゴさ!を初めて体験し、プロの凄みを感じた訳である。Kさん、ありがとうございました。全て無事に引っ越し完了しました。

そして帰国後。今度は荷物を受ける側になった。ところが受ける側の作業スタッフは、運転手を入れて2人だけである。私は実弟も動員して荷下ろし、開梱をし、「インドネシアを出るときは作業を見ていただけなので、どうやって梱包したかなあ」と初めて受ける側の辛さを知った。途中テレビを見ていると、おもしろいコマーシャルを流す引っ越し業者の存在を知った。この会社は私とは関係ない会社だが、きっと優良企業に違いない。なぜならそれは、私にとって他人事とは思えない会社であるからだ。他人事とは思えない、、、そうである、私の名字と同じ名の「サ○イ引っ越しセンター」。

実は、私が日本からインドネシアに赴任するときも同様に、別のとある引っ越し業者に梱包、輸送、通関などの一切をお願いした。実はその時に担当してくれた当時の営業マン、なんと私の帰国時には社長さんになっておられました!皆さん、私の引っ越しを手伝うと、もれなく福がついてくるかもしれません???サカイは幸せも運びます!

帰国者たちは今日も、台風のように過ぎ去った帰国時の引っ越し前後の様子を思い出し、「はて、この箱は何が入ってたかな?」といまだに開梱されずに残っている一箱を見て「そうか、これは思い出が入ってるんだ」と、言い訳がましく一人感慨にふけ続けるのであった。

第53記 2005年9月1日

さて、第48記で急に尻切れとんぼ状態になり、再開が半年後となったこの駐在員記。まだ私の帰国時の状況をお知らせしていなかった。

私は2005年3月に帰国したが、その帰国日が確定したのは2005年の1月。それからというもの、仕事のこと、家庭のこと、それなりに帰国に伴う作業がつきまとい、これまで帰国された先輩方と同様、時間に追われ、そしてお金にも追われていた。多くの場合、それまでの生活道具などを引っ越し荷物として送り出した後は、住んでいた家やアパートなども出払う。そしてその後の帰国日までは、数日間の暮らしに必要な荷物だけを携行し、帰国フライトまでホテルなどでゆっくり過ごすことが多いようである。私も、多分に漏れずそのパターンで「初体験」の本帰国を楽しむつもりであった。これまでの10数年間の駐在を通して得たこと、友人、そして思い出。これらを深く思い返し、泣いたり笑ったりして静かにこの国を去ろう、そう考えていた。

ところが、である。私は帰国日当日の朝まで自宅で過ごすことができた。何よりもまた、帰国日の3日前に家財道具や身の回りの荷物を日本に向けて輸出することができた。そのせいか、帰国に向けて心の態勢へ段階的に盛り上げ、そして余裕のある「完璧な本帰国」とはほど遠い引っ越し劇であったが、とても楽しめたようにも感じる。ある日、急に荷物を簡単にまとめて日本に行ってくるか、という気分に近かった。なので帰国後もしばらくは日本に一時的に旅行しているような気分であった。しかし帰国後は、住居を決め、住民登録を再度行い、仕事を始め、家族のこと、特に初めて日本で生活する息子たちの世話をしている間に徐々に日本に住んでいる実感がわき上がってきたのである。

なぜ引っ越し荷物を帰国直前の3日前に出したか。その理由は、、、帰国日の4日前に独演会を行ったからである。

これはありがたい私の親愛なる多くの友人たちが企画し、そして私を送り出してくれた、最高の送別会だと思っている。本当にありがたく、心のこもった温かい友人のつながりを強く感じ、感謝している。帰国直前の、それも4日前にこんな催し物をしてしまうのもどうか、と最初はとまどったが、最後に最高の思い出ができたことは、私にとって「泣いたり、笑ったり」のインドネシア駐在の締めくくりとなった。ここでもう一度お礼を言いたい。独演会に携わった方々、来ていただいた方々、本当にありがとうございました。あれから約半年。当時の仲間たちとは、ときどき連絡をとりあう。同じ地に暮らした同士として、その絆は永遠だと信じている。

インドネシアからの帰国直後、インドネシアのことを思い出すことは殆どなかった。しかし半年過ぎた最近、余裕ができたのか、慣れてきたのか、以前よりインドネシアでの暮らしを思い出すことができるようになった。あらためて世話になった方々にお礼をしたい気持ちである。

帰国者たちは今日も、駐在期間に比例しただけの帰国リハビリ期間を経て、改めて駐在時の友人たちに感謝し、思い出を愛し、そして祖国への愛もより一層募るのであった。
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