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新国家「大和」、日本より分離独立を宣言する。

Part2 大和、分離独立を宣言する〜その1 (2005.8.23)

小笠原諸島は、東京から約千キロ南に位置する群島で、小笠原群島、火山列島および三つの孤立島から成り立っている。小笠原群島は聟島列島(聟島、媒島、嫁島)、そこから約四十キロ南下した父島列島(弟島、兄島、父島)、そしてさらに父島から約五十キロ南下した母島列島(母島、姉島、妹島、姪島)で構成され、さらに母島から南南西二百キロに火山列島(硫黄島、北硫黄島、南硫黄島)が位置している。硫黄島は周知のとおり太平洋戦争最大の激戦地である。そして孤立島にはそれぞれ西之島、南鳥島(日本最東端)、沖ノ鳥島(日本最南端)があり、いずれも日本の領土を形成する、すこぶる重要な島々であった。いずれもすべて東京都に属し、東京都小笠原村として行政区分されている。

全体に亜熱帯気候で、平均気温は二十三度。一年を通じて温度差はあまりなく、海洋性で凌ぎやすい。父島、母島のみ住人が暮らし、それ以外はすべて無人島である。(ただし硫黄島には自衛隊基地があり、自衛隊員および建設業者が約五百名居住している)

小笠原諸島最大の島である父島は、総面積二十四平方キロメートル、人口は約二千人、村役場・支庁・総合事務所・郵便局・警察署など規模は小さいものの、一応の行政機関はすべて揃っている。母島は、総面積約二十一平方キロメートル、人口約四五〇人とさらに規模は小さい。

昭和十九年(一九四四年)、全島民が本土に強制疎開、終戦時にはアメリカ合衆国の統治下に置かれた。昭和四十三年(一九六八年)、返還および小笠原村成立、東京都小笠原支庁が設置される。昭和四十七年(一九七二年)には、東京〜父島、父島〜母島に定期船が就航。同年小笠原諸島は、その美しさを誇る自然から国立公園に指定され、現在では東京より週六便定期船が就航中である。ただ空港建設はさまざまな理由により見送られており、その自然の美しさにもかかわらず、そこを訪れる観光客は年間二万五千人ほどで、すぐ近くにあるグアム島を訪れる日本人観光客が年間百万人であることを考えると、小笠原への訪問者は極めて少ないといえた。第一次産業に従事するものは驚くほど少なく、村の産業は日本政府による公共事業がその中心である。

さて、どちらかといえば、日本の喧騒とはかなり無縁の、そしておおよそ分離独立とは程遠い感じのする、平和で静かなこの小笠原村から、ある一人の老人が独立騒ぎを起こすとは、まさか誰が想像できただろう。

ここで登場するその老人は、母島の南にある妹島と姪島の間に、ぽつんと存在する、ほとんど島とも呼べぬような、地図にも載っていない、ちっぽけな島――妾島に一人で住んでいた。名を大室直吉という。

この大室直吉老人、明治十一年(一八七八年)生まれというから、百二十歳はとうに超えている大老人であった。ということはギネスブックに堂々と記載されてもいい世界最高齢者のはずである。ところがこの老人の記録(戸籍や住民票など)が現存しないのである。太平洋戦争でほとんどの記録が焼失し、古い書類に太平洋戦争行方不明者一覧「大室直吉」と微かに残っているだけなのであった。そしてこの大室直吉老人、「儂は正真正銘大室直吉である」と謳うのであるが、誰も戦前の大室直吉を覚えているものがおらず、果たして老人の言うことが本当かどうかよくわからない。特に背筋をピンと伸ばし、元気で溌剌としているところ、それがどう見ても百歳を超えている老人には見えない。勿論腰まで伸びた長い髪、眉、口ひげ、あごひげは既に真っ白、さすがは百歳以上の雰囲気を醸しているが……。熱帯ということもあり、衣装は細身の体に白い布を巻きつけただけのもの。これに黒ぶちメガネをかけているのが、なんともアンバランスで、老人というよりは風変わりな仙人と行った感じもし、マグマ大使に登場するアース様がメガネをかけたと言えば、イメージできる人も多かろう。

この直吉老人が妾島に住みついてもう何十年になろうとしているか。母島に住む老人の話では、自分達が戦後母島に戻って来た時には、もう既に直吉老人がいたと言う。最初は「旧日本軍の生き残り兵士が、敗戦を知らずゲリラとして隠れているのか」と思っていたらしい。そうであれば可哀想と、小船を出して恐る恐る妾島へ近寄り、直吉老人に謁見してみたところ、兵士にしては年を取り過ぎている様子。いろいろ話を聞いてみたら――
「一人暮しが好きでのう、昼は書を読み、夜は書を書き溜めておる。ラジオはちゃんとあるぞい、日々不自由はしておらん。それにのう、儂を師と仰いでくれる者が、結構な数おってな。しょっちゅう本土から本やら薬やら送ってくれとる。目の前は太平洋の大海原、食に困ることはない。畑も自分で耕しておる。人間一人で生きていくのはさほど大変なことではないわい。ほっ、ほっ、ほっ」
と笑うのであった。母島の人々はホッとして「それでは、もしお困りのことがありましたら、たまに様子を伺いに来ますから、遠慮なくお申し出下さい」と親切な申し出をしたところ、
「いやあ、実にありがたい。特に不自由はしておらんが、ひとつだけお願いがある。と言うのは、やや訳あって、浮世からちょっと離れてみとうなって、この島へやって来た。儂がここにいることは誰彼にも内緒にしてほしいのじゃ」
「そんなことでしたらお安い御用」と母島の人々は引き上げたが、風変わりな爺さんが妾島に住んでいるということは父島にも知れるところとなり、小笠原に住む人々の多くが老人を訪ねて来た。直吉老人は来訪者にさして嫌な顔もせず、逆にさまざまな機智に富んだ話をユーモア交えて聞かせ、来訪者を大喜びさせた。
「どうやら人嫌いではないらしい」
「海軍の偉い人だったかもしれん」
「有名な学者さんだったに違いない」
と、いつの間にか小笠原の人々は、直吉老人を村の長老と捉え、何か問題が起きた場合は、いつも直吉老人の指示を仰ぐようになった。ただし直吉老人の強い希望で、本土まで(直吉老人のことが)知れることのないよう、小笠原の人々は緘口令を布いた。もっとも本土まで千キロもあり、特に緘口令を布かなくても、知られることはなかったであろう。

そして、この妾島に住む大老人大室直吉が、平成十×年◎月△日正午、日本全国に向け、新国家『大和』独立を高々に宣言するのであった。

以下明日に続く(土曜日の更新はありません)。

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